08







夜、夢を見た。
夢の中で、子供が泣いていた。誰かを呼んでいる。両親だろうか?
目覚めた直後、由梨は胸騒ぎを覚えた。
早朝、ママチャリを引っ張り出し、由梨は単身嘉端山へと向かった。
勾配の激しい山道を進み、急な坂道では自転車を押して、下り坂ではブレーキを踏みながら、由梨は1時間以上かけて目的の雑木林の前までやって来た。
朝の薄い陽光が、由梨の首筋に、背中に、ママチャリのハンドルに降り注ぎ、冬だというのに暑いくらいだった。由梨はその辺の木陰に自転車を止めると、出掛けに巻いて来たマフラーを外し、自転車の籠にコートごと突っ込んだ。額に浮かんだ泡のような汗をハンカチで拭いながら、冷たい飲み物でも一緒に持ってくれば良かったと後悔した。
携帯を開き、時間を見る。
8:37
「あれ?」
よく見ると、電波表示が圏外だった。
「あれ?」
ほぼ同じタイミングで、声がした。驚いて振り返ると、自転車を止めた木陰の、大木を挟んで反対側に、地面に座り込んだ諏訪の姿があった。
「……す、諏訪さんっ?」
由梨が裏返った声を上げる。諏訪は被っていた制帽のツバを少し持ち上げ、驚き青ざめる由梨の顔を確かめた。
「ああ、小川さん」
「な、何してるんですか?」
「見張りですけど、小川さんは?」
「わた、私は」
由梨ははっとした。
汗だく。
寝癖でぼさぼさの髪。
リップクリームを塗っていない、かさかさでヒビ割れた唇。
「……」
「小川さん?」
「……何でいるんです?」
両手で口元を押さえ、今にも泣きそうな声で由梨が言った。
「早いんじゃないですか? こんな朝早くから見張りをしてるんですか?」
「は? ……え、ええ、まあ」
「うそぉ」
由梨はがっくりとうな垂れた。諏訪は由梨の落胆の意味が分からず慌てた。




持参した水筒の蓋を開け、熱々の緑茶をなみなみとコップに注ぎ、
「どうぞ、少し熱いかもしれませんが」
隣で蹲る由梨に、諏訪はそれを差し出した。
由梨は何も言わず受け取ると、睨みつけるように緑茶入りのコップを注視した後、ずず、と一口啜った。
「熱いです」
「……すいません」
ずず。
「おいしいです」
一昨日、福屋の車内でふるまわれた緑茶と、同じ味である。
「そうですか。良かったです」
諏訪は、ほっとしたようにそう言った。
(……ん?)
そこで由梨は、また気付いてしまった。
「これって……」
「はい?」
「この水筒って、諏訪さんの?」
「そうですよ。私の私物です」
私物。つまり、諏訪も使っている。
「……」
間接。
間接だ。
(……うそぉ)
体育座りをした膝に、
ごつっ
由梨は額をくっつけた。
「小川さん、今日学校は?」
そんな由梨の胸中など知る由もなく、諏訪が空を見上げながら尋ねた。
「……試験休み中なんです」
「ああ、そうなんですか。小川さんも、見張りにいらしたんですか?」
「ええ。ちょっと、気になったので」
「気になった?」
由梨は、今朝見た夢の内容を諏訪に説明した。
「子供の声? この湖からですか?」
「はい。聞き間違いじゃないと思うんです」
「以前にも、似たような声を聞いた事は?」
「夢の中でですか? 分かりません。多分、聞いてないと思いますけど」
「……」
諏訪は、唐突に押し黙った。
「小川さん」
そして、何かを決意したような声で、由梨に言った。
「しばらく、傍にいて下さいませんか?」
「……え?」
いきなりの申し出に、由梨の思考が停止する。
「傍にいて欲しいんです」
畳み掛けるように諏訪が言った。由梨は赤くなるどころの騒ぎではなかった。
「なにゃ、な、何でですか?」
驚くやら嬉しいやらで、由梨はすっかり煮え切ってしまった。ああ、世界が暑い。本当に今は冬なのだろうか。
「私でも気付けない些細な場の変化に、小川さんなら気付けるかもしれません」
「場の……え? あっ、そういう事……」
「は?」
「い、いえ! 何でもないんです」
まあ、予想通りである。
「もとより、見張るつもりでここまで来ましたから。ご一緒させていただいても、よろしいですか?」
「お願いします。何か少しでも妙な点に気付いたら、すぐ私に知らせて下さい」
「分かりました」
こうして由梨と諏訪は、並んで道路に座り込み、雑木林の見張りを始めた。




「それにしても、きれいな景色ですよね」
由梨が言った。眼前に広がる絵画のような美しい世界には、気味の悪さと、神々しさとが、同じ割合で共存しているようだった。
「……車掌からは、どこまで聞いているんですか?」
右膝を立て、その上に右腕を乗せて、諏訪は眠そうな目を雑木林に向けたまま言った。車掌というのがみどりの事だと分かっていた由梨は、一体何の事だろうと思案した。
「どこまでって?」
「聞いていませんか? 世界にはたくさんの神話があり、各地域は神話の元に成り立ち、物質の循環も神話の元に起こっていると……」
「あ、ああ」
またそれか、と由梨は思った。
「はい、聞いてます。神話が縺れると、危ないんですよね?」
「あれは、その“縺れ”なんですよ。あの湖は神話が縺れたことによって発生した神の世界なんです」
諏訪まで、『神』と来た。しかし、由梨はもう驚かなくなっていた。
「少し胡散臭くて長い話しをしますが、よろしいですか?」
諏訪が言った。諏訪も由梨も、ただ湖を眺めることに飽き始めていた。
「ええ、是非聞きたいです」
丁度良い暇つぶしになる。それに、諏訪の話すことになら、由梨は幾らでも興味があった。
諏訪はちらりと由梨を見、またすぐに雑木林に目線を移して、
「……神話とは」
静かな声で、語り始めた。



神話とは、その地に根付いた歴史であり法則です。神が創った法則ですが、その効力が近年少しづつ弱まってきています。世界は今、大いなる改変期を迎えていると言っても過言ではありません。神話など全く関係のない『自然科学の法則』へとゆるやかに移行している最中の、非常に不安定な時期なので、綻びが生じ易くなっています。
まあ、綻びの発生理由については、また別の機会に調べるとして……。
実際、黒鳥神社には偶像はあれども黒鳥神本人の気配は一切なく、神の不在は明らかだった、と車掌が言っていました。神社に気配がなければ、他のどのような場所にも神はいないんですよ。
神の世界は、まるで無かった事にされようとしています。それは世界の勘違いではなく、事実として無かった事にされているのです。神は本当は居たのに、居なかったことになって行き、神話はただの御伽噺に過ぎない物になって行きます。それは誰の意思によるものでなく、言ってしまえば、時代の流れのひとつなんですよ。
もちろん、地球上には今だに神の影響力が色濃く残る地域も数多く存在しています。倉多町は、とくに神の風化が早い地域と言えますね。その割には黒鳥神話は多くの人々に愛されているようですが。
その消えた筈の神が、この世にまだ居る事になっている。本当に“居る”訳ではなんです、居るものだと世界が勘違いをしているだけで。そして、それに伴い、滅んだ筈の神の世界までもが、未だに在る事になっている……それがこの町に起きている異変の正体だろうと、私達は考えています。世界っていうのは結構バカですから、時折こうした勘違いをしてしまうんです。
この場所にこの湖が発生したから神話が縺れたのか、または、神話が縺れたからこの湖が発生したのかは定かではありませんが、この湖を起点とした半径300mほどの“場”が、今回の感染する夢を引き起こした元凶である事は間違いないでしょう。
町に蔓延している夢は、この場の存在を知らせるためのものなのかもしれませんね。前兆であり、警告です。もしこのまま場が広がってしまうと、いずれこの町に大きな“バグ”が起こってしまいます。とにかく危険だから、気をつけろと言いたいのでしょう。

「ばぐ?」

大変な自然災害だと思って頂ければ問題ありません。偽の神は世界から弾かれます。その弾く力が、バグになるんです。

「偽の神……?」

無いはずの景色の中に居るのは必ずまがい物です。あの綻びは、部分的に具現化した神の世界です。いいですか、小川さん。神の世界の中には、必ずそれを作り出した“創造主”が存在しているんですよ。それはあの綻びの中とて例外ではありません。
あの湖の景色   つまり、部分的に広がっている神の領域   の中には、神のまがい物が潜んでいるんです。世界はそれを消そうとする。レプリカは許さないんです。その消そうとする意思が、もしかしたら“湖の夢”なのかもしれませんね……





「そうなんですかぁ……」

最後の方は、ほとんど聞き取れていなかった。
般若経のような諏訪の淡々として抑揚の無い声の連続を聞いている内に、頬をつねっても脛をつねっても打ち払えないような怒涛の睡魔が、由梨の量瞼にずしりと圧し掛かってきた。

いけない、せっかく諏訪さんと2人きりなのに、諏訪さんが私に説明してくれてるのに……。

思いもむなしく、いつしか由梨は深い眠りに堕ちていった。






次へ(09)
前へ(07)
連載ページへ


inserted by FC2 system