09







きれいだ。
青も、赤も、桃も緑も、白も黒も何もかも。
淡く耽美な世界に浸り、どれほどの時間が流れただろう。私は幸せだった。ただ、ただ、どこまでも良い幸せで満たされていた。
気持ちが良いのだ。ずっとずっと、こうしていたい。
(うそだ)
泉に手をつける。救い上げた水が、細やかな硝子の粒となって霧散していく。私はころころと笑った。美しいことがおかしかった。脆い。“美しい”は、はかなく脆いのだ。
(本当は、寂しいくせに)





肩を叩かれた。
はっとして目を開く。そこは真っ暗な場所で、傍では水が流れていた。
いや、この音は、雨だろうか。
(雨? 雨なんていつの間に……)
「小川さん」
誰かの声がした。そこで、急激に由梨は覚醒した。
ここは何処?
暗闇の中で立ち上がる。右を向いても、左を向いても、闇。
「小川さん、こっちです」
諏訪の声が言う。落ち着いたその声の出所を探るように、由梨は暗闇に手を突き出し、声を上げた。
「諏訪さん? どこ? 見えませんよ」
「落ち着いて。こちらですよ」
真後ろで、ぼっと音がした。熱が背中に当たり、足元にゆらりと影が現れた。
振り向いた由梨の目に、赤い炎と、それを右手で握り締める諏訪の姿が飛び込んできた。炎はプラスチックライターから上がっていた。諏訪の私物なのだろう。
「諏訪さん! 良かった……」
今にもその胸に飛び込みたい気持ちを、由梨はぐっと堪えた。ライターの炎が地面を照らし、朽ちたアスファルトの割れ目や破片、そこから芽吹くタンポポやセイタカアワダチソウなどの雑草を、揺らめきながら映し出した。
「大丈夫ですか? どこか具合の悪い所はありませんか?」
ちろちろと陰影が揺れる諏訪の顔を見つめながら、由梨は首を横に振った。
「大丈夫です。ごめんなさい、私ついウトウトしてしまって」
とりあえず、状況が飲み込めなかった。辺りがこんなに暗くなているところを見ると、もう夜なのだろうか。
「場が暴走しています」
「え?」
「急ぎましょう。とにかく、この暗闇から出なくては」
言うが早いか、諏訪は由梨の両脇に手を入れた。
「えっ?」
「すいません、少し我慢して下さい」
そして由梨を持ち上げると、自身の肩に担ぎ上げた。
「え、え、諏訪さんっ?」
「非常事態です。この闇の中に長居すると取り込まれ、二度と現実には戻れなくなります」
「な、え? 何言ってるんですか?」
諏訪は答えず、雨の降りしきる冷たい闇の中を走り始めた。
「す、諏訪さん?」
「山を降ります。申し訳ありませんが、自転車の事はあきらめて下さい」
「自転車?」
「見張っていた事が、逆に仇となりましたね。おそらく危険域は、この嘉端山のみでしょう」
先ほどから、諏訪の言っている言葉の意味が分からない。諏訪に担がれ密着状態にあるというのに、由梨は緊張すら忘れて、ひたすら混乱を極めていた。
場が暴走している?
それって、どういう事?
「あ、あの、今何時なんです? 夜じゃないんですか?」
「夜ではありません。たぶん、昼過ぎくらいでしょう」
「昼? なんでこんなに暗いの?」
「ここが綻びの内側だからです。外から見張っていた時は明るく見えますが、内部はこんな有様です」
「え、じゃあ、私たちはあの湖の景色の中に入ってしまっているんですか?」
「そうですね。綻びがいきなり広がり始め、眠っていた私たちはそれに飲み込まれたんですよ。対処する間もなく、ここまで誇大化されてしまいました」
自嘲気味に諏訪が言った。それはつまり、予期せぬ問題が起きてしまった、という事だろうか。
「まあ、そうですね。我々に限って言えば大問題でしょう。綻びの中に入り込むなんて、正気の沙汰じゃありませんよ」
「うそ、やだ、どうしよう……」
諏訪の冷静な口ぶりからは、とても異常事態であるという緊迫感が伝わって来ないのだが、周囲のこの状況は明らかに異常で、由梨は徐々に事態の深刻さを理解していった。
(私が寝ちゃったから?)
きちんと起きて、見張っているべきだったのでは。こんな事になってしまう前に、気付く事は出来なかったのか。
(町は、倉多町はどうなるの?)
これから何が起きる? バグ? 自然災害?
やだやだ、どうしよう……。
様々な良くない妄想が目まぐるしく脳内を駆け巡る。由梨は泣きそうだった。
ちっ。
舌打ちが聞こえた。いきなり諏訪が足を止め、ぐるりと向きを変えた。
「諏訪さん……?」
「……」
諏訪は動かない。ひた、と前方から湿った足音のようなものが聞こえた。
(人?)
気配が近付いて来る。暗闇の向こうに、何かがいた。
「構って欲しいんですか?」
誰に対してなのか、諏訪がそう言った。
ひたひたと続いていた足音が、由梨たちのすぐ前で止まった。
「申し訳ないが、我々には時間がないんですよ」
そう言って、諏訪が火のついたライターを前方へと放り投げた。
火花が散った。
ひた。
踏み出されたその足先が、炎の元に浮かび上がる。
黒い影。
由梨は、身震いした。
靄のように霞んだ、黒いだけの大きな足。

ぼおおおおおお

引火した炎が、それを一斉に包み込む。
ありえない勢いで火柱が上がる。炎に巻かれ、“何か”は苦しみ、おぎゃああと叫び声を上げた。
すかさず諏訪は向きを変え、炎を背に走り出した。
由梨は声が出なかった。喉元に冷たいアイスロックが詰まってしまったかのように、呼吸すら忘れていた。



光源を失ってしまった諏訪と由梨だったが、しばらく走ると、前方に眩いバスのヘッドライトが見えた。
黄金色のバスである。行き先案内版には、明朝体の見慣れた『福』の文字。
「バスですよ! 諏訪さん!」
「カレスか」
由梨は喜び、諏訪もどこか安堵したように息を吐いた。運転席では、初老の男性が口元に微笑を湛え、諏訪と由梨が辿り着く前に前扉を開けた。
「ご苦労様です」
由梨を担いだ諏訪が、ステップを登りきるのと同時にカレスは扉を閉め、バスを急発進させた。
「車掌は?」
「所用で出ております」
「所用? これ以上の用が何処にあるんです?」
諏訪は苛立っているようだった。由梨はへなへなとバスの廊下に倒れこみ、二人の会話も耳に入らなかった。
諏訪はブレザーの内ポケットから携帯電話を取り出し、みどりと連絡を取ろうとした。
「……この時点で異変に気付くべきだった。昨日は通話が出来たのに、今日は圏外ですよ。そういえば今朝携帯を開いた時にも、圏外なんて妙だなとは思ったんですよ。なんで気付かなかったのか……」
溜息をつきながら、圏外表示の携帯をもう一度ポケットに仕舞う。
「お疲れのご様子ですが、何があったのか、詳しくご説明頂いてもよろしいでしょうか?」
「寝ました」
「はい?」
「寝てしまいました。小川さんは朝に自転車でやって来て、私と一緒に見張りをしていました。いつの間にか私も小川さんも眠っていて、目が覚めた時には、綻びはもうすっかり広がりきった後だったんです」
「眠らされたのですか?」
「分かりませんよ。ここへ来る途中、闇の中で創造主らしきモノにも会いましたが、攻撃されかけたので逆に……」
「きゃあああああ」
諏訪が言いかけた時、唐突に由梨が悲鳴を上げた。諏訪がバネのように振り向くと、床の上に座り込んでいる由梨は、後ろを向いてがくがくと震えていた。
後部ガラス越しに、何かが見える。
「……逆に、火あぶりにしてさしあげたのですね?」
柔和な笑みを崩さず、サイドミラーを確認したカレスが、静かな声で言った。
バスの背後から、それは驚くべき速度で迫っていた。

ごおおおおおおお

立ち昇る火柱の豪快な音が、タイヤの回る音に交じり、車内にまで響いて来ている。由梨は恐怖のあまり泣き出していた。諏訪によって火達磨にされた“それ”は、執念深く、諏訪の乗る黄金バスを追って来ていた。
「早いな」
「振り切りましょう」
「いやあああああ」
バスが加速し、由梨が泣き叫ぶ。バスの加速に、そいつはぴたりと付いて来る。
身の丈3メートルほどの、火の化物。
「ひいいいい」
「大丈夫ですよ、落ち着いて下さい」
「す、諏訪さん、ああああれ何なんですか? ついてきますよ?」
「あれは、オミノマナカ神ですよ」
由梨の肩をぽんぽんと叩きながら、諏訪が言った。
「黒鳥神の弟君から生まれた3人の姫君、その長女が、竜王との間に身篭った尊が、あれです」
「尊ぉ?」
「まあ、あれは偽者ですけどね。一応、神様という事になります」
神様? あれが?
「何かに捕まって下さい」
マイク越しにカレスが言った。由梨が反応するより早く、諏訪が由梨を左手で抱き締め、右手でシートの肘掛を握った。
がくん、
バスは左へ傾き、続いて右へ傾いた。由梨はきゃーきゃー叫んでいる。闇を照らすヘッドライトが、切り立った崖と、転落防止のために設置された白いガードレールを映し出した。バスの向かって右は山林、左は絶壁である。時速130kmで走る大型車にとっては、ガードレールなど空気も同然、落下から身を守る術は、運転手が道を外れない正確な運転をするというただそれだけである。
その運転手であるカレスは、今まさにアクセルを踏み込み、ハンドルをぐるんぐるん回し、暴走の権化となってバスをどこまでも加速させている。
そうでもしないと、背面から迫る謎の物体に追いつかれてしまうのである。
「タイヤ、タイヤ浮いてますよカレスさん!」
「存じております」
「いやああああ、落ちます、スリップします!ていうかしてます!」
「存じております」
カレスはどこまでも冷静である。もしかしたら極度のスピード狂なのかもしれない。
由梨は生きた心地がしなかった。暴走バスはガードレールに車体を擦りつけながらもカーブを曲がりきり、急な下り坂をほとんどバウンドしながら走り抜けた。

ぼおおおおおお

背後の何者かが、あろうことか、口と思しき空洞部分から炎の渦を吐き出してきた。辛うじて炎はバスには届かず、それを見ていた諏訪がぷっと吹き出した。
「見て下さい、火を吹きましたよ」
“それ”はもう一度、真赤な炎を吐き出した。
「あー、やっぱり届きませんね。せっかく私が差し上げた炎なんですから、もっと上手に使って欲しいものですね」
「ななな何言ってるんですか! あれって明らかに私達のバスに引火させようとしてますよ!」
「使い方が下手すぎます。意外とかわいげがありますね」

ぴぴぴ

その時、携帯が鳴った。
諏訪の携帯である。笑っていた諏訪は、笑った顔のまま、発信元を確認せずに通話ボタンを押した。
「はい、諏訪です。……車掌ですか。はい」
電話の相手はみどりだったようで、諏訪ははい、はい、と何度か頷き、
「はい……えっ?」
えっ、いやっ、と何度かぎょっとしたように喚き、
「……はあ、分かりました。はい」
渋々といった様子で、最後はやっぱり頷いてから、電話を切った。
「車掌からですか?」
カレスが尋ねる。バスは崖地帯を超え、鬱蒼とした森の中を相変わらずの高速で走っていた。
バスでどこまで進んでも、窓の外の景色は暗闇に包まれたままである。縺れはどうやら嘉端山全域にまで拡大してしまっているらしい。
「ええ。指令が来ました」
「どのような?」
「……今実行します」
諏訪は由梨を見た。床にへたり込んでいる由梨が、中腰の諏訪を見上げる格好になる。
「え?」
なぜか諏訪からただならぬ気配を感じ、由梨は反射的に身構えた。
諏訪は、不憫な子供を見るような目で由梨を見下ろし、
「寝て下さい」
そう言った。
「は?」
寝て?
「眠って下さい。今すぐ、この場で」
「あ、……え? いや、無理ですよ。なんでですか?」
「それが車掌の指令なんです。小川さんを何とかして眠らせなさいと。眠れませんか?」
「や……難しいです。今眠くないですし」
諏訪は、ひどく落胆した。
「そうですか。ならば、手段はひとつです」
そして、そう呟いたかと思うと、
「申し訳ない」
「え、何……うっ?」
首筋に衝撃があり、何も分からないまま、由梨は呻きながら意識を失った。





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