06





その夜も、由梨は夢を見た。

さわさわと木々が揺れ、透明な風が朱や桃の彩りを運ぶ。波紋が広がる青い水面に、滲むように浮かぶ黄金月の道が、悠久の彼方へと由梨を誘う。明るい景色の中に、たくさんの人の気配を感じる。ここはどこだろう。今にも解けてしまいそうに儚く、美しいその場所に、立っているのは由梨一人である。
(どこにいるの?)
誰かが言った。空耳だったかもしれない。
(どこに行ったの?)
由梨はただ見つめる。時間を忘れ、自分の存在すら忘れ、夢見るような彩の世界を眺めている。






翌朝、みどりとの約束通り、由梨は福屋の待つ駅前ロータリーへと向かった。
閑散とした駅前の道路に、黄金バスのエンジン音が低く響いていた。昨日と同じ場所に停車していたバスの扉をノックし、開いた前扉から、みどりがひょっこりと顔を覗かせた。
「おはようございます」
にっこりと微笑むみどりに会釈し、由梨はステップを上がった。運転席には、見慣れない初老の男性が、背筋を伸ばして座っていた。
「紹介します。運転手のカレスです」
白髪白髭の男性の肩をぽんと叩き、みどりが言った。紺色のブレザーをきっちり着込んだ男性は、柔和な笑みを浮かべ、由梨にぺこりとお辞儀した。
「どうもはじめまして、カレスと申します。昨日の夕方は、丁度ビラ配りに出ておりまして、ご挨拶が遅れてしまいました」
由梨も慌ててお辞儀を返した。彼   カレスを含め、みどり、諏訪の3人が、福屋を構成する全メンバーであるらしかった。
諏訪は、後方の二人掛けの席の窓際に、ひっそりと腰掛けていた。制帽を深々と被っており、その表情は伺えないが、由梨に向けて頭を下げたので、眠っている訳ではないらしい。
「では、行きましょうか」
みどりが言った。インカムを装着したカレスが、「出発します」と言ってエンジンを吹かすと、その声が車内に取り付けられたスピーカーからも聞こえて来た。
「このバスは、倉多4丁目交差点、遠藤橋を経由し、嘉端山へと参ります。途中山道で相当な揺れが予想されますので、ご注意のほどを」
「揺れないように走りなさい」
みどりが棘っぽく言う。今日の彼女は頭に白黒の制帽を被っていた。
「尽力致します」
カレスは穏やかな笑みで答えながら、大きなハンドルをぐるぐると回した。
由梨は、昨日と同じ、運転席のふたつ後ろの席に座った。 何か音楽でも流そうと言って、みどりがオーディオの電源を入れた。しかし適当なCDが見つからなかったらしく、結局はラジオの音楽専門チャンネルを流し始めた。
諏訪は結局眠ってしまったのか、寝息すら立てずに沈黙している。左側の最前列の席に座ったみどりは、時折カレスに運転の注文をつけていた。
見知らぬバスの中で、最初は身を固くしていた由梨だったが、黙々と走り続けるバスの車窓から見慣れた町の景色を眺めている内に、だんだんと肩の力が抜けてきた。
『200メートル先、右方向です』
運賃支払い機の奥にはカーナビが取り付けてあって、滑舌の良い女性の声が、時折思い出したようにぽつりぽつりと案内をする。どこかで聞いたようなメロディーラインを繰り返すラジオの音楽に、がたがたと揺れるバスの走行音。由梨はなんだか眠くなってきたが、頬をつねって睡魔に耐えた。




30分ほどして、バスはカーブの急な山道に入った。
舗装された道を外れ、凸凹の砂利道を進む。木の葉や枝先がばしりばしりと窓に擦れ、車体は右へ左へ、上へ下へ激しく揺れ動き、さながら時化た海を行く船上にでもいるような気分だった。
「大丈夫ですか? 酔いましたか?」
前の座席の背もたれを必死に掴んで揺れに耐えていた由梨に、みどりが心配そうに声をかけた。
「よ、酔ってないです、大丈夫です」
「ごめんなさい、もうすぐ到着しますので……。カレス、少し速度を落として下さい」
ほとんど徐行状態のバスは、ゆるゆると山の斜面を登ったり下がったりしながら、道なき道を、まるで山の自然を切り開くように進んで行った。不思議とバスの大仰な車体が、木の幹や太い根につっかかってしまう事はなかった。
(もう、とっくに嘉端山には入っていると思うんだけど……)
窓の外の風景は、随分前に住宅街から木立の連なりへと変化しており、進めば進むほど常緑樹の緑は濃く、太陽の光りは薄くなっていった。一体どこへ向かっているのだろうか? 山間と言っていたが、そこに一体何があるのだろう。




程なくしてバスは停止した。長らく続いていた木立が束の間ひらけ、陽光がさんさんと差し込む明るい広場のような場所だった。
「こちらです」
みどりに促され、一向はバスを降り、野原を進んだ。
二分ほどで、道に出た。
土壌ではなく、アスファルトによって舗装された道路である。一車線で、横幅は3メートル以上。
山林のど真ん中に、いきなり現れた車道。
「廃棄された道です。50メートルほど先で途切れているため、この道を伝っても倉多町には辿り着けません」
みどりの言葉通り、路面は所々が割れていて、中から雑草が生えていた。
その道路を、倉田町方面へと数歩登ったあたりで、由梨はふと胸騒ぎを覚えた。
「ここです」
みどりが立ち止まる。
道路は両脇を雑木林に挟まれている。みどりは、由梨から向かって右側の雑木林を、すっと指差した。
由梨の胸騒ぎは収まっていた。空の高いところで鳶が鳴き、柔らかい風がさわさわと木々の葉を揺らした。
みどりの指差す先には、木々の隙間に、真っ青な湖が見えた。雑木林の向こうは明るい日差しで満ち溢れ、湖の上には虹がかかり、色とりどりの花が咲いていた。
「……!」
まるで騙し絵のような光景だった。静かに湖は波立ち、そよそよと暖かな風が由梨の頬に当たった。樹冠の作る真っ暗な闇に閉ざされた雑木林の中にあって、その湖の回りだけが、異様とも思える程に輝き、神々しい気配すらした。
「な、なに、これ……?」
由梨はその場に固まり、食い入るように目の前の景色を見つめた。
きれい。
眩しい。
「数日前、我々福屋は、この嘉端山を超えて倉多町へやって来ました。山越えの際、少々道に迷いまして、その時に偶然、“これ”を見つけたんです」
伸びをしながら、みどりは言った。
「おかしな景色でしょう? 非常にきれいですけど、何とも形容しがたい違和感がありますよね」
「そんな、ありえないです、こんなものは」
「ええ」
「……夢と、同じなんです」
由梨は、両手で自身の体を抱き込んだ。
「面白いものが見れるって……この事だったんですね?」
「そうです」
みどりが、わずかに困り顔になって頷いた。
「私が毎日夢に見ている湖の景色と、そっくりなんです」
「分かっています。そうだと思ったから、確認のためにあなたをここへお連れしたんです」
嘉端山には湖なんてない。
あるはずのない湖が、今由梨の目の前に存在している。
波打ち際に打ち上げられた大量の魚の死骸を見た時や、お風呂場にカマドウマが現れた時に感じるような、生理的などうしようもない嫌悪感を、由梨はこの美しい景色に対しても抱いていた。
「何なんですかこれ? なんで夢と一緒なの? 一度も見た事ない景色なのに……」
驚きを隠せない由梨とは対照的に、みどりは何かを納得している様子だった。
「やっぱり、気味が悪いですか?」
「悪いです」
「そうですか」
うんうん、とみどりは頷く。
「なるほど。大体の事は分かりました」
「えっ?」
「全部、これのせいなんですよ」
これ、と言って、みどりは雑木林の湖を指差した。
「……これのせい、って?」
「こんなものが現れたから、倉多町の人々は『湖の夢』を見るようになったんです」
「こんなもの?」
「これは本来、この場にはあり得ない湖でしょう? そんな妙なものが発生しているから、気をつけなさいと、“湖の夢”にはそういう意味があったのだと思います。警告ですね。だから、湖の夢そのものに害がある訳ではないと思いますよ」
事も無さげに、みどりは言った。
「病原菌のせいでもなければ、夢の種があるわけでもありませんよ。この“縺れ”がまるで毒電波のように湖の夢を発信し、倉多町の人々は次々とその電波を受信しているような、例えればそんな状態なんです」
「あの、よく意味が……」
「湖の夢が流行り出したのは、三ヶ月ほど前からだとおっしゃいましたよね?」
「え、ええ」
「三ヶ月前に、この湖畔も、この場所に現われたんですよ」
「湖が?」
「これはただの湖じゃありません。異常な場なんです。周囲にどんな影響を及ぼすか分からない、極めて危険なものです」
「ど、どうしてそんな事が分かるんですか?」
「見れば分かります」
みどりは腕を組んだ。
「発生理由は分かりませんが、こういった場が唐突に生まれてしまうことが、稀にですがあるんです。私達は職業柄、色々な土地を巡っておりますが、何度かこれに似た現象を見かけた事があります」
「本当ですか?」
「ええ。これはまだ小さい方ですよ。このように局地的で、ひっそりとしている“綻び”は、そう長くは持たないものなんです」
だから、この“異常な場”は、近い将来自ずと消滅するだろう、とみどりは言った。
そうすれば、町民が“湖の夢”を見る事もなくなる、らしい。

「そんな……でも……」
およそ信じ難い話しではあるが、由梨は否定できなかった。眼前に広がる風景の不気味さが、由梨の中から常識を奪い去っていった。
なぜ夢を見る?
なぜ湖の夢を?
「『黒鳥神話』によると」
それらの問いに、みどりは思案しつつ答えた。
「黒鳥とは、鶏子の如く混沌とした世界、つまり陰界を渡る鳥です。その黒鳥によって作られた世界は勿論陰の気を帯びていましたが、この世界は一度、その陰と陽が逆転したことにより、今のような姿になったとされています。陽に追いやられた陰は、黒い靄のような異界となって、陽界の裏側に今も存在し続けているらしいのですが、その陰界というのが、おそらく生き物の見る夢の世界なんじゃないかと私は思うんです」
「黒鳥神話が関係しているんですか?」
「していますよ、大いにしています」
そういえば昨日も、神話がどうとか、色々と訳の分からない話しをされたのだった。
「黒鳥神話において、“夢”は特別な意味を持っています。人々の夢と夢とは繋がっていて、その繋がりがひとつの世界を築いているのでしょう。だから夢は伝染するんです。その夢の世界に、陽の世界に起きた異常が伝播してしまったんです。異常が湖という形を成しているのは、陽界の異常の発生源がこの“湖”だからなのではないでしょうか   まあ、大丈夫ですよ。湖の夢は確かに不気味でしょうが、放っておいても大事はないでしょうし、近い将来、倉多町の人々は必ずそ湖の夢から解放される筈です」
「……今すぐは無理なんですね?」
由梨は、今すぐ夢を見なくなる方法が知りたかったのだ。みどりはうっと言葉に詰まり、
「それは……申し訳ありません。今の所はまだ」
「そうですか」
「ごめんなさい! 我々の力不足です。もう少しお時間を頂けませんか? そう……三日! 三日以内に必ず何か良い方法を探し出してみせます。それが無理なようなら、頂いた依頼料を全額お返し致しますので」
「え、いえ、そんないいですよ」
「いえいえ! 小川様との契約を反故にしてしまう事になりますので、そんな体たらくで契約料金を頂くわけにはいきませんから」
みどりはそう言って、もう一度湖畔を見た。
「この場所は、一応念のため、我々が随時見張っておくことにしますね。異常な場がこれ以上広がらないように」

湖は静かに波打っている。この風景の中では、季節までもがデタラメで、咲き誇る枝垂桜の艶やかな桃色が滲むように水面に映り込み、まるで湖に描かれた絵画のようだった。
本当に問題ないのだろうか? 湖の夢はいずれ去るのだろうか?
不安は消えず、むしろ増えたが、由梨の中で、みどり達に頼ろうという気持ちは変わらなかった。





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