01 プロローグ 最近、町で妙な夢が流行っている。 それは湖の夢である。霧の立ち込める幻想的な森の中で、青く澄んだ湖をぼおっと見つめている。空は淡い乳白色、吹き抜ける風は虹色の煌きを帯び、目に映る全てが瑞々しく色彩を放ち、とにかく美しいのだ、と夢を見た者達は言う。 複数の人間が、同じ内容の夢を見る。 それは伝染する夢である。小川由梨の知っている限りでは、クラスメイトの高橋君のお父さんと、担任の武藤先生のお母さん、それから、近所の駄菓子屋の日暮おばあちゃんが、既にその“夢”に捕らわれている。一度その夢を見てしまうと、続けて何度でも同じ夢を見るようになる。そうやって夢は増えていく。一度とりついた人間からは、夢は二度と離れないのである。 それだけだ。 感染した夢が引き起こすのは、同じ夢を毎夜見続けるハメになるという、ただそれだけの事象である。いつだったか、その湖の夢に感染した者は、最初に夢を見てから三日後の朝に必ず命を落とす、などという意味不明な噂が流れた事もあった。それは紛れも無いデマなのだが、町民の多くが、感染する夢の存在を気味悪がっている事は確かだった。 なぜそんな夢を見るのか、最初にその夢を見た人は誰なのか、何もかもが不明のまま、ある日突然、由梨の住む“倉多町”はその夢に捕らわれた。 気味が悪い、と小川由梨は思っていた。 ある朝、通学に利用している停留所でバスを待っていた小川由梨は、道路を走るその変わった車を目撃した。 それは中型のバスであった。車体は眩い金色で、タイヤは純白、赤ワイン色のきらきらとした大きなリボンがサイドミラーにくっつけてあり、風を受けてひらひらと靡いている。フロントマスクのトップエンドに設置されている行き先案内用のディスプレイには、電子文字で一言、福、と記されていた。 (……“福”行きのバス?) そのような地名が、この町にあっただろうか。何よりも、満遍なく塗装された車体の黄金色が、眩しいくらい目に付いた。由梨と同じように、停留所でバス待ちをしている人々も、呆気に取られた様子でそのバスを見ていた。 何かのキャンペーンカーだろうか。それにしては広告の類が一切なく、一体何のキャンペーンなのか分からない。 由梨は学校帰りにも、駅でそのバスを見かけた。駅前ロータリーの一角にバスは停車していた。キンピカの車体は相変わらず派手で目立っていた。 町の者ではないのだろう、と由梨は思った。余所者に違いないが、あれは一体何のための車なのだろう? 家に帰ると、郵便受けに夕刊やはがきに交じって、金色のやけに光沢のある奇抜なちらしが一枚入っていた。反射的に、駅前で見かけた例のバスを思い出し、由梨は何となくそのちらしを読んでみた。 ◆◆倉多町の皆様、はじめまして!!福屋です!!◆◆ 福屋は『福』を運びます。困り事、悩み事、何でも解決致します。 ※今なら初回料金一律たったの1000円ぽっきり!(ただし契約時間は最長三時間、経費別途) 一見さんも大歓迎!家事手伝い、お悩み相談等、何でもお気軽にお問い合わせ下さい!! 電話番号 080-○○○-□□□ 代表 仙葉みどり 文面と合わせて、かわいらしいバスの絵柄がちらしの隅っこに小さくプリントされている。ひょっとしてこれはあのバスが配ったちらしではないか、と由梨は思った。 リビングでは、専業主婦である母が、エプロンをかけたままソファーに横になっていた。ただいま、と由梨が言うと、うーん、と気のない声で答えた。 「どうしたの?」 妙な金色のバスを見かけた事や、妙な金色のちらしがポストに入っていた事を由梨が伝えても、母はへえ、とか、ふうん、とか空返事をするだけで、まともに話しを聞く気がないようだった。 いつもは元気な母らしくない。気遣わしげな由梨の問いかけにすら、億劫そうに母は目を瞑った。 「なんだか、頭が痛いの。それに凄く眠くてね」 「頭痛いの?風邪?」 「熱はないんだけどね、調子良くないのよ。お母さん今日は早めに寝るから、片付けとかよろしくね」 「う、うん。大丈夫?」 「さあ……」 これは駄目だ、と由梨は思った。さっさと母を寝室に寝かせ、夕食の準備は由梨が行った。 その夜、ふと喉の渇きを覚え、由梨はそっとベットを抜け出した。 夜中の三時過ぎである。台所へ行くと、食卓の椅子に腰掛けている母親の姿を見つけた。 部屋は真っ暗で、暖房もついていない。こんな時間にどうしたのだろうか。パジャマを着た母親は、虚ろな表情で部屋のどこか一点をぼおっと見つめていた。 「ど、どうしたのお母さん?具合悪いの?」 驚いて由梨が声をかけるが、母親は微動だにしない。由梨は部屋の明かりを付け、冷え切っていた母の肩に毛布をかけてやった。 「夢を見たの」 すると、呟くように母は言った。 「え?」 「湖の夢なの、凄くきれいな」 「……湖?」 「ふわふわっと光ってて、きらきらしていて、きれいなの……本当に」 それっきり、母親は口を噤んだ。 まるで意識の半分がまだ眠っているような、ぼんやりとした自失状態。とにかく眠ろうと由梨が言うと、母親はこっくりと頷いた。 両親の寝室では、母のベットの横で、父がぐーぐーといびきをかいて寝ていた。母親は布団に入るや否や、沈むように眠った。 一体何事だろう、と由梨は思っていた。 (凄くきれいな……?) 夢を見た、と母は言った。 噂の“湖の夢”の事を、由梨はほとんど性質の悪い流行病のように捉えていた。 夢が伝染するなんてあり得ないと言い張る論者もいるが、由梨にはそうは思えなかった。この夢は、人から人へうつるのだ。何かの病原菌が関係しているのかもしれない。夢の種みたいなものがあって、それを取り込んでしまった人が、“湖の夢”を発症するのだ。 (お母さん、まさか……) 感染したのだろうか。それは物凄く不幸な事だと由梨は思った。 湖の夢は不治の病。良くない事が起きる前兆。理由も確証もないが、由梨は漠然とそんな風に思っていた。 母親が間違いなく深い眠りについている事を確認してから、由梨は自身も布団に戻った。湖の夢は町内で静かに広がり続けており、いつかは自分達の身にもその火種が飛んでくるであろう事は容易に想像出来た。 覚悟はしていた。しかしそれでも、不安なものは不安なのだ。 もし母が感染しているとするならば、その内自分や父親や弟も、湖の夢を見るようになるのだろうか。母は大丈夫なのか。何も悪い事が起きなければ良いけど……。考え事が留まらず、中々寝付けなかった由梨の両瞼をようやく睡魔が襲ったのは、空がすっかり明るくなってからだった。 次へ(02) 連載ページへ |