02 翌朝、母は何事もなかったかのように台所で朝ごはんと由梨のお弁当を作っていた。 具合はどうなの、と由梨が恐る恐る尋ねると、 「え?具合?」 何のこと? と、ひどく意外そうに母は首を傾げた。 由梨は昨夜の事を掻い摘んで説明した。頭が痛いと言って母は早めに就寝した事、しかし夜中に寝惚けて起きて、なぜか食卓の椅子に一人でぼーっと座っていた事。 そういえばそんな事があったかもしれない、と母の答えは煮え切らなかった。 「なんでかなー、なんか昨日の事よく覚えてないのよ。確かに具合が悪かったような気はするんだけど……夜中に起きてたの?私が?嘘でしょう」 そんな調子である。私どこか悪いのかしら、と母は心配そうだったので、きっと熱のせいだろうと由梨は心にも無い事を言っておいた。 (湖の夢を見たって言ってた事も、忘れちゃってるのかな?) それならそれに越した事はない。母親も由梨と同じく、湖の夢の噂をとても不安がっていたからだ。 たとえば、湖の夢を見たせいで、記憶が飛んでしまっているという可能性はないだろうか。 湖の夢は毎日見る事になるだけで、害はないと聞いている。けれど、それはあくまで“噂”であって、百パーセント真実であるという保障はどこにもない。 記憶障害を引き起こす?湖の夢は、見た者の脳に何かしら影響を与える? (三日で死ぬ……) いや、それはない。それはないと思う。 「ほら、由梨。いいから早く準備しなさい。遅刻するよ」 母に促され、由梨はおずおずと朝食のバターブレッドに手をつけた。お腹は空いている筈なのに、口に含んだバターブレッドが由梨にとっては味のない砂のように感じられ、飲み込むのが辛い程だった。 その日も、朝のバス停で、昨日見たのと同じ黄金塗装のバスを見かけた。やっぱりポストにあったあのビラは、このバスが配ったのだろうと由梨は思った。案内板の福の字は、行き先ではなく、福屋の福なのだ。 <悩み事、困り事、何でも解決します> 余所者の目には、この町の異変はどう映るのだろう。得体の知れない人たちに、わざわざお金を払ってまで噂の夢の事を相談する気にはならなかった。 学校では、相変わらずクラスメイト達が、湖の夢の噂話しに花を咲かせていた。気味が悪いと言いながらも、噂を口にする多くの者が、むしろその気味悪さを楽しんでいる風であった。 (やっぱり、言い出せないなぁ……) もしかしたら私のお母さんも例の夢に感染したかもー、とは、由梨にはどうしても言い出せなかった。そうとは認めたくない気持ちが半分、噂を娯楽として捉えているだけの人に、自分の母親の一大事まで話しのネタにされたくはない、という気持ちが半分。 それから三日間は、泥のようにゆっくりと時間が流れた。 三日後の朝も、母は相変わらず台所に立っていた。何事もなく三日目を迎えられた事に安堵しつつも、由梨の中で“湖の夢”に対する不審感はどうしようもなく強くなっていた。 だから、思い切って聞いてみたのだ。 「噂の変な夢、見てるんじゃないの?」 その時母は台所で、夕飯の支度をしていた。 母親はきょとんとしていた。お味噌を溶かす手を止めて、丸い目をして由梨を振り返った。 「……どうして?」 「え?」 「由梨は、どうしてそう思うの?」 心底不思議そうに、母親はそう尋ね返してきた。由梨は三日前の夜中、母親が自ら『湖の夢を見た』と言っていた事を打ち明けた。 「へぇ、そうなの」 母親は納得したように頷いてから、再び鍋に味噌を溶かし始めた。 「うーん、じゃあ、そうなのかしらね?」 「……何それ?」 「ここ数日ね、夜寝ても夢を見ないのよね。いやね、見てるんだけど、覚えてないの、多分そういう事なんだと思うの。夢を見ているような気はするのに、起きたら内容を全く思い出せないのよ。でも、由梨の言う通り、三日前には確かに、湖の夢を見たような記憶があるのよね」 「見たの? 本当に例の、噂の夢だったの?」 「さあねぇ。いつか旅先で訪れた湖を、夢でたまたま見ただけかもしれないし」 ただ、と母親は言葉を区切った。 「たまにね、ぱっと思い出すのよ。家事をしたり、料理を作ったりしている時に、あの湖の風景が脳裏にちらつくの。ああ、あそこはきれいだったなぁって、それがどこなのか分からないんだけど、つい最近見た風景みたいに、やけにリアルに情景が思い浮かぶのよ」 「お母さん、それって」 「お父さんや勇太には、内緒にしてね」 「……なんで?」 「余計な心配かけたくないでしょ? 別に問題ないと思うけど、私だってちょっと気味悪いし」 「……」 「ごめんね由梨。本当はあんたにも秘密にしておきたかったんだけど」 はあ、と母は溜息をついた。 「問題ないわよ、こうして三日は経ったんだし」 その言葉は、まるで母が自分に言い聞かせているようだった。 噂と違う。 目を覚ましたら、夢の内容を一切覚えていない、なんて噂は聞いた事がない。 毎日同じ夢を見るという噂が流行ったのも、感染者が夜中見ていた夢の内容を、明け方目を覚ました後もきちんと覚えているからではないのだろうか。 個人差があるのか? なぜ、母は感染したのか? 何よりも、母親が不憫だった。きっと凄く不安だろうに、周りにそれを悟られまいと、ぐっと堪える強さを母は持っている。 母のために出来る事はないだろうかと由梨は考えた。考えていたら、頭が痛くなってきた。 なんだか寒気までしてきたので、学校の宿題も途中で投げ出し、弟の勇太からのゲームの誘いも断って、由梨はいそいそと布団に入った。 次へ(03) 前へ(01) 連載ページへ |