11 エピローグ









自室のベッドで寝ていた由梨を、勇太が起こしに来た。
「お姉ちゃん、ねえねえ」
由梨はわずかに瞼を開ける。閉め切ったカーテンの隙間から、朝陽が真っ直ぐ由梨の顔に向けて差し込んだ。
「ねえってば」
勇太に揺すられ、由梨はようやく布団から体を起こした。今は何時だろう? なんだかよく寝た気がする……。
「変な夢見た」
目を丸くした無表情で、勇太はそう言って由梨の腕を握った。
「夢……?」
「お姉ちゃんも、見たよね?」
「……あ」
思い出した。
同時に、疑問が沸いた。
「あれ? なんで私」
ぱちぱちと頭の中で火花が散る。ここはどこ? 賀端山は?
「変な夢だったなぁ」
勇太はピー助を抱え、ひとりでぼそぼそと呟きながらしきりに首を捻っていた。
変な夢。
そうだ、夢を見て……。
ぴちちち。
窓の外で、小鳥が囀っている。朝の光りが、室内をやわらかく照らす。
朝だ。
「なんで、家に……?」
思い出せない。勇太と一緒に、由梨も首を捻った。






カレスが、バスの窓を雑巾で拭いている。
由梨と勇太は、その背中に声をかけた。
「カレスさん」
「おや? ……ああ、小川様」
おはようございます、とカレスは恭しく頭を下げた。由梨と勇太もそれに倣い、
「お掃除中ですか?」
「ええ。バスのメンテナンスは私の仕事でございますので」
「ピカピカ!」
勇太が言った。黄金バスの車体はワックスで磨き上げられた直後のようにテラテラと輝いていた。
「ピカピカでしょう? 先ほど磨いたばかりなのですよ」
「いいと思う!」
勇太は金色が気に入っているらしい。カレスは嬉しそうに頷いた。
「由梨様はどう思われますか?」
「え?」
このバスの磨き上げたボディをどう見る? という意味だろうか。
「あ、ええと、いいと思います。なんか、金運が上がりそうですね」
「金運ですか。良い響きです」
2人に褒められ、カレスはとても満足そうだ。
「どうぞ、私めには構わず、中へお上がり下さい」
カレスの申し出を受けて、由梨と勇太は開いていた前扉から福屋バスの車内へと入った。
「昨晩はよく眠れたでしょう?」
運転席にはみどりが座っていて、由梨を見るなり開口一発そう言った。
「ええ。ぐっすりでした」
「それはなによりです」
「例の夢も、見なかったみたいです」
「そうですか」
みどりは分厚い本を読んでいた。黒い背表紙には、“黒鳥神話”の文字。
「諏訪さんは?」
「諏訪は買い物に出掛けています。100円ショップでライターを買うとか言ってましたね」
「ライター……」
瞬間的に、由梨の脳裏をあの炎の化物が過ぎった。やはりあれは夢ではなかったのか。
「少し、お散歩しましょうか」
由梨が何のためにやって来たのか分かっているらしいみどりは、そう言ってハードカバーをぱたんと閉じ、脇に抱えて立ち上がった。
由梨は、勇太をカレスの元に残し、みどりと一緒にバスを出た。




「眠ったまま目覚める気配のなかった小川様を、カレス達がバスでご自宅までお運びしたんです」
子供で賑わう公園内を由梨とを並んで歩きながら、みどりが続ける。
「お母様は大層驚いてらっしゃったそうですが、そこはどうにかカレスが言いくるめてくれたそうです」
「ええ、母から聞きました。寝不足と貧血が合わさって倒れたと説明されたが、本当なのか、と朝から質問攻めにされましたよ」
母はカンカンだった。他人様に迷惑をかけるとは何事か、と散々説教され、最後に『体は大丈夫なのか』と心配された。
「私と勇太様は、小川様のご自宅の、勇太様の部屋から夢の世界へ入って行ったので、私達が目覚めたのは勇太様のお部屋の中でした。諏訪はバスの車内で。勇太様は目覚めた直後、まだ眠いと言って、そのまま二度寝されてしまいました。おそらく、お2人共精神をひどく疲労されたのでしょう」
「あの後、どうなったんですか?」
「オミノマナカ神は消滅し、我々が夢の世界から弾き出されたという、それだけですよ。小川様は立派にお役目を果たしてくださいました。ミザラミ尊に慰められて、オミノマナカ神の心は鎮まりました」
消滅。
そうなのか。やはり、あの子は死んでしまったのか。
「……そんな、私は何もしてませんよ。オミノマナカ神みたいな変な黒いものを見つけて、何か声をかけようと思ったら、すぐ辺りが真っ白になっちゃって。本当に何もしてないんです」
「それで良いんですよ。言葉だけが気持ちを伝える手段ではありません」
「そうでしょうか」
「……まだ、ミザラミ尊の影響力が消えていませんか?」
どこか虚ろな目の由梨に、みどりが尋ねる。
「いえ、そういう訳じゃ」
「寿命だったんですよ。偽者の命はそう長くありません。オミノマナカ神の魂は浄化され、暴走は収まりました。これでいいんですよ」
そう言うみどりの表情は、曇っているようにも、清々しく晴れ渡っているようにも見えた。
「別にね、鎮めてやる必要は無かったんです。あのまま暴走を放っておいても、大惨事を招く前にオミノマナカ神の寿命は尽きていたはずですから」
「え? じゃあ、どうして?」
「一応、保険ですね。暴走っていう行為自体が危険なものである事は間違いないですし、消滅の瞬間まで暴走を続けてしまうと、神が消えた後も何かしらの後遺症がその地域に残ってしまう場合がありますから」
「……そうですか」
「それに、かわいそうでしょう」
みどりは空を見上げた。
「最後くらい、穏やかな気持ちで終わらせてあげたいじゃないですか」
由梨も空を見た。天に神はいるとされているが、本物のオミノマナカ神達も、空の上から今回の騒動を眺めていたのだろうか。
「母も父も、昨夜は湖の夢を見なかったみたいだ、って言ってました」
おそらく高橋家も、日暮れ家でも、倉多町の誰もが、昨夜は例の夢とは違う内容の夢を見ていただろう。
「そうでしょう。縺れが解消されたのですから」
図書館の前まで来ると、由梨は立ち止まってみどりの方を向いた。
「ねえ、仙波さん。どうしてあの子は生まれたんですか? 何で神話は縺れてしまったんですか?」
みどりの抱えている黒鳥神話の表紙が、ちらちらと目の端に入る。由梨は消えてしまったオミノマナカ神に同情していた。
「なぜ、という明確な理由なんて無いんだと思います。人がある日突然病魔に冒されるように、神話の縺れもまた、世界にとって不可避の突発的な病魔のようなものなんです。何かしらの小さな良くないモノが、積もり積もって縺れとなって暴発するのかもしれません」
何やら思いつめた表情の由梨は、じっとみどりを見据えて言った。
「仙波さん達は、倉多町に来る前道に迷って、あの縺れている現場を見つけたと言いましたよね? 異常が発生していると理解しながら、私が依頼するまで行動に出なかったのはなぜですか?」
どこか挑発気味な由梨の視線。みどりはを軽く受け流した。
「部外者が勝手な判断で手を出して良いものではないからです」
「? でも、手を出したじゃないですか」
「あなたに依頼されたから、我々はあの縺れと関わる事を決めました。よくある言い回しを使えば、あなたが我々に依頼を持って来た事によって、私達とあの縺れとの間に“縁”が生まれたんです」
「縁?」
「はい。依頼を福屋に持って来たあなたの意思は、そのままこの土地の意思でもあります。手を出して良いよ、という許しを頂いたから、手を出したまでです」
「じゃあ、もし私が依頼を持って行かなかったら?」
「いえ、放置しっぱなしという事はありませんよ。町にあまりに大きな損傷を与えそうだと判断した場合は、何かしら行動に出ていたと思います」
「じゃあ最初の時点では、行動に出る必要はないと判断されたんですか?」
「そうです。そう危険なものだとは思いませんでしたから、もし縁があれば手を出そうかと、そういう方針でした」
みどりは、やけに喰ってかかる由梨を見つめながら
(やっぱり、まだミサナミ尊の影響から抜け切れてないのかも)
そんな事を思った。
「小川様は、今回の騒動を悲劇だと思われますか?」
みどりの問いかけに、由梨はえっと顔を上げた。
「大勢の家族に祝福されて生まれる筈が、永久の孤独の中に、まるで廃棄物のように突然ぽとりと産み落とされ、自由に動き回れる世界は極端に狭い。生まれたというだけで世界に敵視され、ただ命の終わる時を待つのみの存在」
「それは、やっぱり、かわいそうな事なんじゃ……?」
「偽者の神は、生き物ではないんです。私達の目から彼が悲しんでいるように見えたとしても、当の本人が本当に悲しんでいるとは限りません。悲しんで見えるように行動しろとプログラミングされただけの、無機的な存在である可能性だってあるんです」
「でも、仙波さんはさっき、かわいそうだって」
「まあ、そうなんですけどね。それが、私達のサガなんですよね」
「サガ?」
「やっぱり私達は人間ですから、どうしたって人間目線で物事を捉えてしまいますよね」
そう言って、みどりは泣き黒子を指でぽりぽりと搔くような仕草をした。
「ただ、小川様が思いつめる必要はありませんよ。もし彼の神が本当に悲しいという感情を持ち合わせていたとして、それでも勇太様と由梨様によってイザナミ尊と触れ合えた最後の瞬間だけは、彼の心は幸せで満たされていたはずですから」
「……そうでしょうか」
「そうですよ。だから、暴走は止まったんです」
みどりは言いながら、持っていた黒鳥神話を由梨に差し出した。
「と、いう事で。お願いします」


「……は?」
「返却ですよ。この本もう読み終わったので、延滞する前に返却しておかなくてはと」
「え? それで、なんで私に?」
「昨日、勇太様に頼んで借りてもらったんです。読んだのは私ですけど。勇太様とは血縁でも何でもないのに私が返却したら、ちょっと不自然でしょう? だから姉である小川様に返していただこうと思いまして」
自分は倉多町の人間ではないので、図書カードを発行してもらえないないのだ、とみどりは言う。
「……まあ、別に良いですけど」
渋々、由梨はみどりから本を受け取った。
「あ、そういえば」
思い出したように由梨が声を上げた。図書館へ入りかけていたみどりが足を止める。
「弟の勇太……まだ小学二年生なんですけど、その勇太の学校で、今福屋さんがとても話題になっているみたいですよ?」
「え? 話題?」
途端、みどりの目が潤んだ。
「ええ。金色のちらしが評判良いみたいですよ」
「そ……そうでしょう? とにかく目立つよう目立つようにと考えた結果、ここはやっぱりゴールドしかないだろうと意見がまとまりまして、福屋のシンボルカラーを金に定め、ちらしも、車の色も、全部金で統一したんです」
「そうなんですか。良いですよね、金」
「ええ。ふふふ。それで、話題ってどんな風に?」
「詳しくは聞いてないんですけど、なんだか流行っているらしいです。学校の生徒の多くが、福屋さんに依頼に行きたくてうずうずしているみたいで」
「うずうず?」
「はい」
「……なんで来ないんです?」
「え?」
「依頼に来たいのなら、もう来ているはずですよね? 何でうずうずしているだけで、勇太様以外に一人も来ないんです?」
ずずい、とみどりは由梨ににじり寄った。威圧感に気おされた由梨が半歩下がる。
「ひ、一人も来てなかったんですか?」
「来てませんよ。この町で私達に依頼を持って来てくれたのは、小川様と勇太様のお2人だけです」
「わ、分かりませんけど、まだ警戒しているんじゃないですか? 倉多町はどこか保守的な所のある町ですから」
「……保守的。なるほど。排他的なんですね」
うすうすそんな気はしていましたが、とみどりは床の一点を睨みつけるようにして言った。
「やっぱり、アイドルを雇って町民を骨抜きにするしか手はないようですね」
「そ、そんな事ないですよ。ほら、私も布教活動にご協力しますから」
「布教活動?」
「ええ。例えば、湖の夢を退治してくれたのは福屋さんですって宣伝して回ります」
「それはやめて下さい」
「えええ? どうしてです? 町の救世主じゃないですか」
「絶対誰も信じてくれませんよ。むしろ夢をばらまいたのは福屋じゃないかって陰口叩かれるに決まってます」
「そそ、そんな事……」
「……小川様は、中々かわいらしいルックスをしてらっしゃいますよね」
おもむろにみどりは言うと、由梨の頭からつま先までを嘗め回すように眺めた。
「な、せ、仙波さんには言われたくありませんよ……」
「……背は小柄」
「は?」
「目は一重。だけど垂れ目で睫毛が長い。鼻筋は通っている。肌もきれい、ニキビひとつ無いし、毛穴は閉じているし、唇は今はやりのアヒル口」
「あ、あ、あの」
「ただ、まだちょっと垢抜けて無い感じがしますよね。まずは前髪から変えて、メイクをして、足がきれいだから、服もミニスカとニーソの組み合わせにして……」
「仙波さん?」
何やらみどりは脳内で、勝手に由梨をアイドルに仕立てあげているようだった。
「ひゃっ?」
ぴたっ、と由梨の背筋に、正体不明の違和感が生まれた。背中に何か、冷たい物が触れている。
「アイドルなら、やっぱり羽根くらい生えているべきですよ」
そしてそんな声が、由梨の頭の後ろから聞こえた。聞き覚えのある、無感情な声。
「え? 諏訪さん?」
「どうも。似合いますね」
みどりは慌てて背中を見た。肩の向こうに、白い羽根先がちろちろと見え隠れした。
「羽根。良いですね」
由梨から生える二枚の翼を見て、みどりがうんうんと大いに頷いた。
「背中の産毛が羽根になっちゃったバニーガール……天然なのに大胆! この路線でいきましょう!」
「どこかで聞いたようなフレーズですね」
「そうですね、インスピレーションはどこにどんな形で潜んでいるか分かりませんね」
「……まあいいや、敢えて乗りましょう。兎のように震える細い四肢と、潤んだ真赤な瞳(カラコン)に、男共はノックアウト間違いなしですね」
「諏訪の癖にたまには良い事言いますね。その案、採用します!」
「なな何の話しです? やりませんよ私?」
由梨の反論に聞く耳を持たず、謎の盛り上がりを見せるみどりと諏訪は、その後、騒音に痺れを切らした図書館員によって厳重注意された。



「てか、これ、わざわざ買う必要ありませんでしたよね」
由梨から剥がした二枚の羽根を右手で持ってぷらぷら振りながら、諏訪が言った。
「夢の中で使うだけなら、想像力で作り出せば良かったんですよ。480円も出して買うなんて」
「お店にあるものを、自分の所有物として夢の中に持って行ける訳ないでしょう? 具現化するためには、自分の物だっていうリアリティが必要だったんです」
「480円もあれば、うまい棒が48本も買えるじゃないですか」
諏訪は無類のうまい棒好きである。特に納豆味がお気に入り。
「うるさいですね。良いじゃないですか、小川様のアイドル衣装に使えるんですから」
「使いやせん! アイドルなら仙波さんがやれば良いじゃないですか」
「残念ですが小川様、私は既に車掌という重要ポジションについておりますので」
「掛け持ちすれば良いじゃないですか」
「……使いやせん?」 ←諏訪
「言い間違いです! スルーして下さいよ!」
喋りながら3人が歩いて黄金バスまで戻ると、カレスと勇太がおもしろい事になっていた。
身長が180センチあるカレスに肩ぐるまされた勇太が、バスの天井を雑巾で拭いていた。
「おや皆様、お揃いですか」
声でみどり達だと分かったらしいカレスが、振り返らずにそう言った。
「ちょ、ちょっとカレス、何してるんですか? お客様に手伝いさせるなんて」
「申し訳ありません」
「いいですよ、どうせ勇太が無理矢理『手伝わせろ』って頼んだんでしょう?」
カレスを咎めようとするみどりを、由梨が制止した。
「カレスー、次もっと右ー」
「かしこまりました」
勇太の注文を受けて、カレスがバスの側面沿いに向かって右方面へと蟹歩きをする。勇太はすっかりカレスに懐いてしまったようである。
「すいません、小川様。このお詫びは必ずさせて頂きます」
「い、いえ、こちらこそすいません、カレスさんをすっかり尻に敷いてしまって」
由梨とみどりが謝り合っていると、
「雨が降りますね」
空を見ていた諏訪が、唐突に言った。
由梨も空を見た。雲間から覗く空は快晴で、雨の降りそうな気配などどこにもなかったのだが、
「わあっ」
勇太が小さく叫び、雑巾を持っていない左手で頭頂部を抑えた。
ぽつ、ぽつ
ひとつ、またひとつと路面に染みが生まれる。続いて、由梨の頬や、みどりの肩にも、晴れ模様の空から水滴が落ち始めた。
「狐の嫁入りですね」
みどりが言った。誰よりもショックを受けていたのはカレスであった。
「天気予報では一日中晴れだった筈ですが……これではせっかく洗った車がすぐに汚れてしまいますね」
「大丈夫だよ。汚れたらまた僕が洗うの手伝ってあげるよ」
しょんぼりしてしまったカレスに勇太が言った。雨だというのに構いもせず、勇太はカレスの肩の上で拭き掃除を続けている。
ぽたっ
見上げる由梨の左目の真下に、雨粒が落ちた。
(あっ)
その瞬間、由梨は思った。
(冷たくない)
次第に本降りとなっていく雨から避難するように、みどり達はバス車内へと駆け込んだ。
しかし、由梨は前扉の脇で固まり、じっと空を見つめていた。
「小川様?」
不審に思ったみどりが由梨を見る。
「風邪をひいたら、お母様が心配されるのでは?」
「ええ」
由梨は答え、目を細めた。
雨が、温い。
(ああ、そうか)
夢の中の雨は、あんなに冷たかったのに。

なぜ、神話が具現化を望んだのか。
それは警鐘でも、おかしくなっていたわけでもなく。
湖の夢は、ただ、あの子の揺り篭になろうとしたのではないだろうか。
そんな風に、百合は考えることにした。
(もう、寒くないんだね)
小さく微笑み、空から目を逸らす。
そしてみどりに手を引かれ、百合はバスのステップを小走りに駆け上がった。




(終)




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