10 気が付くと、湖畔にいた。 木々に囲まれた湖の岸辺に、由梨は足を水に浸しながら立っていた。雨が降っている。大粒の雨が、清らかな湖の波紋の上に、いくつもいくつも降り注ぎ、新たな波紋を生み落としては消えていく。 空が暗い。 けれど、景色は明るい。 「これが、神の世界ですか」 背後から、諏訪の声が聞こえた。由梨はゆっくりと振り返る。 乾いた砂浜に、黒いロングコートを靡かせた諏訪則人が立っていた。 「思っていたより、普通の場所ですね。これでは、雪の裏側の方だ、まだ神秘的だ」 諏訪の言葉に、なぜだか由梨は苛立った。言葉を選べと言いたかった。ここがどんな場所なのか、彼は知っているのだろうか。 「怖い顔ですね。そう睨まないで下さいよ」 言いながら、諏訪は肩をすくめた。この男は嘘だらけだ。由梨は諏訪から興味を失くし、再び湖の中心へ戻ろうとして、ふと、今日はやけに霧が濃いな、と思った。 紫色の濃霧からは、芳しい匂いがする。懐かしい匂いである。霧の向こうに、小さな影が見えた。それは大と小の2人組みで、手を繋いで、砂浜の上を由梨たちの元へとゆっくり近付いてきた。 「勇太」 無意識のうちに、由梨は声を上げていた。霧から出て来たのは、勇太とみどりだった。 「お姉ちゃん」 勇太が由梨を見つけた。驚いている。由梨は次第に、自分が何をしているのか、ここが何処なのか、分からなくなっていった。 「遅くなりました。小川様、私が誰だか分かりますか?」 みどりがおかしな事を言っている。分かるに決まっていると由梨が首を縦に振ると、みどりはほっとしたように破顔した。 「諏訪、カレスは?」 「運転中です」 「では、ここへは来ていないのですね?」 「ええ」 諏訪とみどりは、何事かを承知したように頷きあった。 「ここは変わった場所ですね。意識が引っ張られて、今にも私ではない私になってしまいそうな気がします。考え事を止めないようにしないと」 そういえば、と由梨は思った。自分は諏訪とカレスと一緒に、福屋の黄金バスの中にいた筈だった。 「すいません、小川様。あなたをこちらの世界に導くために、ちょっと手荒な方法を取らせて頂きました」 意識を失う寸前に感じた、背筋の衝撃を由梨は思い出した。諏訪に何かをされたのだ。おそらくそれによって、由梨は意識を失い 「じゃあ、ここは、夢の世界なんですか?」 由梨が必死に導き出した答えに、みどりは肯定の意を示した。 なるほど。そして気を失った由梨は、夢の世界へ飛んできたのだ。 「どうして勇太が?」 勇太は小川家で唯一“湖の夢”に感染していない。ここが夢の世界だと言うなら、勇太をあまりこの湖に近づけたくないなと思った。 「彼が、解決の要だからです」 みどりはそう言って、繋いでいた右手を放し、勇太の左肩に乗せた。 「解決?」 「お姉ちゃん!」 みどりの意図が掴めず困惑する由梨に、勇太が声をかける。 「お姉ちゃん、知ってる?」 「……」 「ここは神様の世界なんだって。オミノマナカ神ていう人が生まれた場所で、その湖はカムロ湖って言うんだよ」 知ってた? と勇太は得意満面である。 「……オミノマナカ神?」 それは知っている。先ほど諏訪の口からその名を聞いたよりずっと以前、小学校で出された読書感想文の題材に黒鳥神話を選び、“神々の出現”という章を読んでいるときに、由梨が何度も目にした名前である。 『オミノマナカ神は、カムロ湖で黒鳥神や従兄弟達に祝福されながら生まれた』 確かそんなような記述が、『黒鳥神話を読む』という本の中に書いてあったと思う。 さあああ 唐突に、霧が晴れた。陸から吹く冷たい風が、淀んだ曇天を吹き飛ばし、けれど雨は止む気配がなかった。 日差しが暖かい。鳥が囀り、花が匂い立つ。 (解決の要、って……) 由梨はみどりを見た。そして諏訪を見る。諏訪は晴れた空から降る雨を、つまらなそうに見上げていた。 「黒鳥神話を知っている人だけが、件の“湖の夢”を発症していたんですよ」 みどりが言った。勇太は感動しっぱなしで、夢の景色をきょろきょろと落ち着き無く見回していた。 「小川様に書いて頂いたメモを元に、取材を行いました。高橋家では、長女の咲以外の全員が黒鳥神話を一度は読んだ事があると言っていました。駄菓子屋を営む日暮れ家は、全員が感染し、全員が黒鳥神話を題材にした舞台を見ていました。よほど町民に愛されている神話なのですね。湖の夢がここまで町中に広まったした一因には、倉多町における黒鳥神話のメジャー性が上げられます」 「……なんで、黒鳥神話が」 「陽界の異常を受けて、陰界でも神話がおかしくなっていたんです」 三ヶ月前、陽界の神話が縺れた。 縺れたのは黒鳥神話内のカムロ湖についての部分である。『神など昔から何処にもいなかった』という正しい状態が、『カムロ湖だけは存在していた今もしている』にすり替わってしまった。 これによって嘉端山にはカムロ湖が再現され、その異常性が表裏の関係にある陰界にも伝播し、陰界にも“とある異常”をもたらした。 とある異常……それは陰界における神話の変異。ただの昔話に過ぎなかった陰界の神話が変異し、意思を持った。 神話は人々の想像力を借りて、陰界に具現化しようと試みた。なぜ具現化を望んだのかは分からないが、神話が望みを持つ事自体が異常事態なので、そこに理解できる道理など最初からないのかもしれない。 陰界とは夢の世界で、その原動力は夢見の主の想像力である。黒鳥神話を知らない人間は、その世界を想像しようがないので、黒鳥神話を知っている人間の夢の中にのみ、“ しかし神話を完全に実現化させるために、人ひとりの想像力では足りなかった。湖の夢はカムロ湖の出来損ない。もっとたくさんの想像力を集めようと、神話は人々の夢の中に広まって行った。 倉多町の人間は百合がそうであったように、神の存在について否定的である。理性に想像力が阻害されてしまう。それではだめなのである。神話の具現化に必要なのは、理性に捕らわれない圧倒的な想像力。 大人では駄目なのだ。大人の乏しい想像力では、どれだけ集めても具現化などできない。その事に神話は気付かなかった。 子供なのだ。理性よりも、想像力が強い幼い子供の中にのみ、神話が具現化できる可能性がある。 「例えばこの子、まだ幼く、夢と現実の区別がきちんとついていない、神がいるのだと言えば、本気で信じてしまいます。その自由奔放な想像力が、夢の中に本物の神界を生み出したのです」 この子、と言って、みどりは勇太の肩をぽんと叩いた。 「勇太様には先ほど、私が一から黒鳥神話について説明いたしました。神話を信じ込ませるために、私も色々と苦労をしたのですが、その話しはまたの機会にするとして、勇太様は湖の夢の“キャリア”でしたから、今回は無理言って協力をお願いしました。その勇太様のおかげで、今こうしてカムロ湖は完全な形で夢の世界に発現できたわけです」 「……完全な形?」 「ええ。小川様が今まで見て来られた“不完全なカムロ湖”とは、ここは少し様子が違うでしょう?」 確かにその通りだった。百合がそれまで見てきたどの湖よりも、今目の前にある湖は青く広く、色も匂いもはっきりとして、まるで現実の湖のようだった。 「勇太を使って、夢の世界に神界を実体化させたって事ですか? それは、その、陰界の神話の手助けをしてやったって事ですか?」 「その通りです。……ああ、陽界での神の暴走と、陰界での神話の実体化には直接的な関係はありません。陽界と陰界は、それぞれ独立したひとつの世界ですから」 「じゃ、じゃあ、何のために実体化なんてしたんです?」 「今このタイミングで神話を実体化させた理由はふたつあります。ひとつは、湖の夢のこれ以上の感染拡大を防ぐため。このように一度正常な形での実体化を果たしましたから、湖の夢はもう人々の想像力を集める必要がなくなったわけです。 ふたつめの理由は、これが今最も重要なのですが、陽界での神の暴走を止めるためです。この実体化した神界を使って、これからオミノマナカ神を鎮めようと思います」 かさり、と音がした。 木の葉がこすれ、枝が踏みつけられる。その音は、湖を囲む木立の一角から聞こえて来た。 『どうして?』 声が言った。いつか聞いた、あの子供の声だ。 『どこ行ったの? なんでいないの?』 悲しげな声は湖中に反響し、出所が分からないが、由梨は何となく、木立に隠れている何者かの声であるような気がしていた。 「オミノマナカ神の母親は、ミザラミ尊です」 雨に濡れて、重たくなった制帽をはずし、諏訪が由梨に言った。 「小川さんには、そのミザラミ尊の役割をしてもらいます」 「役割?」 「神話の世界には、必ず神が居なくてはなりません」 諏訪の説明を、みどりが引き継ぐ。 「しかし、本物の神はもうこの世界にはいません。だから、数こそ足りませんが、ここに存在している私達に、今その役割が与えられているんです。世界を創造した黒鳥神は、この神界を想像力によって構築した勇太様の役割。そして、黒鳥神が最も信頼している弟君、その実子であるミザラミ尊は、勇太様が世界で一番信頼している小川由梨様、あなたの役割です」 「……仙波さんや、諏訪さんの役割は?」 「私達は、その辺の名も無いぽっと出の神か何かでしょう」 「小川さん、お願いします」 諏訪が言った。 「オミノマナカ神は、今この湖の中に存在しています。その心を、あなたの手で、どうかなぐさめてやって下さい」 「な、なぐさめる?」 「ミザラミ尊になぐさめてもらうことが、オミノマナカ神を鎮める事になるんです」 みどりが答えた。何やらごそごそとロングコートの内ポケットを弄り始める。 「オミノマナカ神は、そのために暴走しているんです。発生した神界はカムロ湖ひとつきりでした。発生した偽物の神もまた、カムロ湖に由来するオミノマナカ神一人きりです。居るはずの兄弟や、親の姿がどこにもなく、きっと寂しい思いをしてきたのでしょう。小川様が夢で聞いたという子供の声は、オミノマナカ神の心の声なんですよ」 「……」 「偽りの神には、自分が偽者だというはっきりとした自覚を持たずに生まれて来るものもいます。死期を悟った偽オミノマナカ神が自暴自棄になって綻びを広げ、デタラメに家族を探しているんです。ですから、家族と会わせてあげれば、綻びの暴走は収まります。オミノマナカ神が偽者なので、家族の方も偽者で構いません。これで倉多町も安泰……っと、あった、ありましたよ」 そう言ってポケットからみどりが取り出したのは、白い二枚の天使の羽だった。手の平より少し大きい位の、幼い子供が仮装などで付けているような安っぽいもので、羽根の付け根に接着テープがついている。 「じゃーん。古着屋の中古アクセサリーコーナーで、480円で購入したんです」 羽根を両手で持ち、うきうきとした足取りでみどりは由梨に近付いた。 「480円? そんな高いものを買ったんですか?」 なんて下らない! という諏訪の悲痛な叫びは完全に無視して、みどりは問答無用で由梨の背中に二枚の羽根を接着させた。 「え? あの、これは?」 「気分を盛り上げるスーパーアイテムです。黒鳥神は鳥ですから、その子孫達にもきっと羽根が生えていたはずです」 「はあ」 どうやらみどりは形から入りたがるタイプらしい。 「さあ、できましたよ。これであなたは身も心もミザラミ尊です。愛するわが子を慰めに、行ってらっしゃい!」 陽気に手を振るみどりの笑顔に、半ば強制的に木立の隅へと移動させられた由梨は、それでもまだ何をすれば良いのか悩んでいた。 『どこにいるの? 会いたいよ』 子供の声は、先ほどよりもずっと大きくなっていた。やっぱり、この木の陰に隠れている存在が、オミノマナカ神で間違いないのだろう。 最初見た時は、黒い靄の塊だった。 バスを追いかけて来た時は、真赤な炎の化身となっていた。 どちらも、気持ちの良いものではなかった。今度はどんな姿をしているのだろう? 子供? それとも、まだ炎を纏っていたりして。 (ミザラミ尊だったら、どうするだろう?) とにかく諏訪とみどりに言われた通り、由梨はミザラミ尊になりきろうと思った。子供が癇癪を起こして暴れているようなものだろうか。いや、事はもっと深刻なのではないか。自分のような部外者が、そう易々と手出し出来るような事態ではないような気がする。どうしよう? 由梨は緊張し、乾いた喉をごくりと鳴らした。かわいいわが子、かわいいわが子……自分にそう言い聞かせ、降りしきる冷たい雨に打たれながら、意を決して木の影に躍り出た。 『ひゃっ』 小さく、子供の声が叫んだ。 『なんなの? どこなの?』 戸惑うような声に誘われ、由梨は木陰を覗き込んだ。 いた。 それは人ではなく、動物でもなかった。 大きさはバスケットボールくらいで、定型がなく、大気を煙のように漂っている。黒い、靄のような、煙のような存在である。呼吸をしているのか、時折靄が萎み、また膨らみ、萎み……を一定の間隔で繰り返している。 雨に濡れて寒いのか、がくがくと輪郭が震えていた。 これが、オミノマナカ神? 紛い物の、神の姿 (うわぁ) 由梨は、気持ち悪いとも、不気味だとも思わなかった。 ただ、 「……かわいい」 それだけを、ぽつりと思った。 オミノミナカ神は何も言わずに、あるかなしかの眼を由梨に向けているようだった。 雨が冷たい。 由梨の背中で、紛い物の羽先から、大粒の雫がぽたりと落ちた。 『………、』 オミノミナカ神が、何かを言いかけた。 (え?) じわり その途端、世界が滲んだ。 どこからともなく生まれた白い光が、由梨とオミノミナカ神を包み込む。 視界が白み、あまりの眩しさに由梨は顔を顰めた。 木の幹が、湖が、徐々にその形を崩していく。 (あ……) 白さに包まれ、何も見えない。咄嗟に由梨は手を伸ばしたが、その手ごと、由梨は光りの濁流に飲まれた。 次へ(11) 前へ(09) 連載ページへ |